東京高等裁判所 昭和56年(う)1854号 判決
一 所論は、文書、図画等のわいせつ性の判断は、単なる法律判断ではなく、事実認定の対象であり、わいせつ性の判断のために不可欠な今日の社会通念が如何なるものであるかは証拠により認定されなければならないところ、原審は、今日の社会通念の内容を明らかにすべく弁護人のなした証人尋問請求の大部分を却下したが、右は刑事訴訟法の目的を定めた同法一条、証拠裁判主義を定めた同法三一七条、自由心証主義を定めた同法三一八条に違反するものであつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
しかしながら、文書、図画等がわいせつであるか否かの判断は、事実認定の問題ではなく、法解釈すなわち法的価値判断の問題であり、裁判所がその判断をする場合の基準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念であるが、その社会通念が如何なるものであるかの判断は裁判官に委ねられているのであつて、その判断に証拠上の根拠を必要としないことは一般の法解釈の場合と異なるところはないのであるから、原審が所論の証人尋問請求の大部分を却下したからといつて、それが刑訴法一条、三一七条、三一八条の各規定に違反するものでないことは明らかである。論旨は理由がない。
二 所論は、刑法一七五条は以下に述べるように憲法二一条及び三一条に違反する違憲無効な規定であるのに、これを合憲として本件に適用した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがある、と主張している。すなわち、憲法二一条は基本的人権として表現の自由を保障しているところ、性について表現することも表現の自由に含まれることは当然であつて、その自由は絶対的に保障されなければならない。しかも、わいせつ表現を処罰する実質的な根拠はないのであるから、刑法一七五条は表現行為に不合理な制限を加えるものとして憲法二一条に違反する。また、刑法一七五条の「わいせつ」の概念は極めて漠然としていて不明確であるとともに、前示のとおり実質的な処罰根拠を欠いている点において憲法三一条にも違反する、というのである。
そこで、まず、刑法一七五条が憲法二一条に違反するとの論旨について考察するのに、憲法二一条で保障する表現の自由が性表現の自由を含むものであることは所論のとおりであり、その自由の保障が全うされなければならないことは当然である。しかしながら、表現の自由といえども、憲法一二条、一三条の規定に徴し、その濫用が禁止され、公共の福祉の制限の下に立つものであつて絶対無制限のものでないことは最高裁判所の累次の判例(昭和三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁、同四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁など参照)の示すとおりであり、性生活に関する秩序及び健全な風俗を維持するため、わいせつ文書、図画などを販売しあるいは販売の目的をもつて所持するなどの行為を刑罰の対象とすることは国民全体の利益に合致するものと認められるのであつて、実質的な処罰根拠を欠くものとはいえないから、憲法二一条に違反しないことは明らかである。
次に、刑法一七五条が憲法三一条に違反するとの論旨について考察するのに、刑法一七五条にいう「わいせつ」とは、いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反することを意味し、当該文書、図画等が右の要件にあてはまるか否かは一般社会において行われている良識すなわち社会通念に従つて判断されることになるが、右に示した基準が如何なるものであるかは通常の判断能力を有する一般社会人の理解においても判断ができないとはいえないから、わいせつの概念が漠然として不明確であるとはいえない。また、刑法一七五条が処罰の実質的根拠を欠くものではないことは叙上説示のとおりであるから、いずれにしろ同条が憲法三一条に違反するものとはいえないことも明らかである。論旨は理由がない。
三 所論は、要するに、今日の社会通念に基づいて判断すれば、本件写真誌はわいせつでないのに、原判決は今日の社会通念が何であるのかの判断を示さずに、本件写真誌をわいせつ図画とした点において事実の誤認が存する、というに帰着するものと解される。
ところで、所論は、右のように原判決が本件写真誌をわいせつ図画にあたると判断した点をとらえてこれを事実の誤認であるとしているけれども、さきに説示したようにわいせつ性の判断は法解釈の問題であるから、以下、法令適用の誤りを主張する論旨として検討するのに、上来説示するとおり、わいせつ性の有無の判断基準は社会通念であり、その社会通念は時の経過とともに変化するものといわなければならないが、現在においても不特定または多数の者の覚知しうる状態で、性器・陰毛をことさらに露出することは、特殊な例外的場合を除いて許されないという社会通念が存在することは否定できないのであつて、その社会通念に基づいて判断すると、本件写真誌中原判決がわいせつとした二枚の写真は、そのほとんどが被写体の女性に極薄物のパンテイを着用させているとはいえ、ことさら股間を押し拡げるなど、いずれも女性の性器ないしは陰毛が写し出される特異な姿態をとらせて撮影したものであつて、もつぱら見る者の好色的興味に訴えることを目的としたものであり、陰毛の一部を抹消した写真もその抹消の具体的態様、程度に徴し、いまだわいせつ性が除去されたものとは認め難いから、これらの写真についてわいせつ性を肯定したうえ、これら多数のわいせつ写真をその余の写真とともに掲載した本件写真誌を、その中で占める右わいせつ写真の比重を考慮し、全体として一個のわいせつの図画にあたるとした原判決の判断に誤りはなく、当審における事実取調べの結果を参酌しても右判断を左右するに足りない。
所論は、本件写真誌以上にその内容が露骨、詳細、煽情性に富むものが巷間に放任流布され、捜査当局の取締りの対象になつておらず、普通人の意識においても特段の抵抗も感じずにこれを受容するに至つているのであるから、いわんや本件写真誌程度の性表現は社会通念上許容される範囲を超えてはおらず、わいせつにあたらないことは明らかである、と主張する。しかしながら、原審において弁護人がその資料として提出した写真誌等については、捜査当局において既に検挙したものもいくつかあることも証拠上明白であり、このこと自体からしても、右資料が捜査当局の放任を推認させるものとはいえないし、いわんや未検挙が即捜査当局においてわいせつ性がないと判断したことにならないことも当然である。そして、たとえ本件写真誌に類似するものが巷間販売されている事実があつたとしても、一般社会における良識がこれを特段の抵抗も感じずに受容し、是認しているとは到底解されないから、右事実をもつて、本件写真誌のわいせつ性を肯定する妨げとはならない。
なお、所論は、本件写真誌において直接性器・陰毛が写された写真は存在せず、いずれも見る者の知的な連想作用をまつてはじめて陰部・陰毛であるかと暗示する程度のものにすぎないのに、原判決が陰部・陰毛の透けて見える具合からしてわいせつなものであると説示しているのは、わいせつ性判断の前提となる事実に誤認があるとも主張するが、上来説示したとおり、原判決がわいせつであるとした二九枚の写真は、被写体の女性の姿態や撮影部位、撮影角度等の如何により、写出された性器や陰毛の鮮明さの程度に差異はあるにしても、所論のいうように、見る者の知的連想作用をまつてはじめて陰部・陰毛であると暗示する程度のものにすぎないとはいえないから、原判決の認定に誤りはない。